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虚構の共有と対立

阿波賀 邦夫

数年前の正月、何となくテレビを見ていたら、ある番組に目と耳が釘付けになった。それは、私が長年不思議に思っていた「人間はどうして悪く教育されてしまうのか」「どうして簡単にだまされてしまうのか」という疑問に対して、一つの答えを与える内容だったからだ。後で知ったことだが、この番組は2019年元旦に放送されたNHK BS1「“衝撃の書”が語る人類の未来~サピエンス全史~」であり、世界のベストセラー、ユヴァル・ノア・ハラリ著『サピエンス全史』の内容を紹介するものだった。

この書では、我々ホモ・サピエンスが、その誕生以来20万年におよぶ厳しい生存競争の中で、ネアンデルタール人などの他の人類種や多くの生物種を絶滅に追い込み、地上で一人勝ちする存在になった理由を、ホモ・サピエンスだけがもつ「虚構を信じ、しかもそれを皆で共有することができる能力」と断じている。この「虚構」は、「空想:即座に、その真偽や価値を定めることができないもの」と訳す方が無難かもしれないが、虚構を共有することによってホモ・サピエンスは共同作業と役割分担ができるグループをつくり、数の力で他の人類・生物種を圧倒したというのだ。それ以来、人類はその時代に応じた虚構を共有して、農業、宗教、経済、国家、科学などを次々と発展させた。たとえば、国家であれば、日本国憲法という虚構を共有することによって日本人というグループが形成され、また貨幣という虚構を共有して経済の仕組みを成立させている。私はこの考えに初めて触れたとき、科学(法則)=虚構という見方だけは違っていると思った。しかし、よくよく考えてみると、我々は近代科学法則を「実験事実に基づく法則」として学んだが、その真偽のひとつひとつ実験して確認した訳ではない。つまり我々は、先人が残してくれた多くの科学法則(虚構)をほぼ丸呑みにして共有し、先人の苦労を経験することなく、それを土台にしてその次の科学技術を発展させている。

冒頭の疑問に戻ろう。我々ホモ・サピエンスには、虚構を共有してグループをつくり、厳しい生存競争を勝ち抜いた記憶が刷り込まれているようだ。それゆえ、虚構を共有するグループの構成員になると、我々には幸福感(生き残れる安心感)が得られるのだろう。この幸福感は虚構の内容や真偽には直接は関係しないようで、つまり全くでたらめな虚構を共有してもグループ構成員にはそれなりの幸福感が生まれ、どうもこれが、人間がだまされやすい原因と考えられる。この幸福感は集団心理とも関係するだろうし、また、「虚構の共有手段」=「教育」とすれば、良い教育と悪い教育を絶対評価することはきわめて難しいと言わざるを得ない。

今、世界で生じるさまざまな人間集団間の紛争は、各集団で共有されている虚構間の矛盾や対立に起因しているように思われる。この対立の恒久的な解決は、全人類が共有できる虚構の統一か、これが現実的でないなら、あるいは血なまぐさいものなら、我々ホモ・サピエンスが「その本性としての虚構共有」を理解し(一段高い虚構共有)、精神的に進化する以外に道はないだろう。

阿波賀 邦夫

化学科 大学院理学研究科理学専攻教授

1978年に金沢大学附属高校を卒業後、東京大学に入学。同大学院に進学後1988年に理学博士を取得。その後、分子科学研究所助手、東京大学総合文化研究科助教授を経て、2001年4月より現職。理学研究科長(2019~2021年度)を経て、現在は高等研究院院長。古くは分子磁性研究に従事し、世界初となる有機強磁性やスピン・フラストレーションを発見した。最近では、分子性トポロジカル物質と固体電気化学を結び付け、基礎から応用に至る広範な研究を展開している。

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