求む隊員。
至難の旅。
僅かな報酬。
暗黒の長い日々。
絶えざる危険。
生還の保証なし。
成功の暁には
名誉と賞賛を得る。
この言葉を研究室の入り口に掲げてある。
英国のアーネスト・シャクルトン卿が南極探検の隊員を募集したときに掲載した文章である。この募集広告が出たときには5000人以上が応募してきたという。時代もあるだろうが、今出したらどうなるのだろう。厳しさやネガティブさを感じてしまうだろうか。
しかし大学に入ってこれからの人生ってこんなものでは? 信仰に生きたとしても現実は神の思し召し。どんなことでも起こりうる、神だから。切り拓いていくしかない。 ただ「しかない」と表現する限り、それはまだネガティブな感覚。むしろ、思し召しされたものに価値を見出していくことが重要じゃないか。科学もそれと同じ。そこにある価値を感じて追求する。それでは価値とは何?
研究は2つのタイプに分けることができる。
ひとつは万人が認める昔からの難題を解決する研究。世の中の要請を満たす応用研究もこれに属する。医学、農学、薬学、工学など多くの実学がそう。役に立つと思われていることが重要でそこに価値がある。便利、効率的、長寿など、わかりやすい。現世的かつ既定路線の価値と結びついた問いである。昔からの問題、解決することが学問の進歩につながると言われている問題もこれにあたる。
もうひとつは問いそのものを見つける研究。誤解してはいけない。無理して問いを見つけるのではない。問いがみつかってしまうような研究。価値を見つけ出す研究であり、何が起きるかわからない、言ってみれば神の思し召し。いや、それをやれば自分を満たしてくれる何かでてくる、閉塞した見方を変えてくれるのではないか、という確信がそこにはある。既定路線ではないから相手にされないことが多い。たとえ相手にされなくても「何か」に心囚われてしまう。それはその人のセンスがなせる技であり、理由を答えられない先験的な奥深さ、実存的肯定感が高揚してしまう圧倒的価値をそこに感じてしまう。しかしそこで見つけたことは、時に、実学世界を変えてしまうほどの価値を現実にもたらす。
理学部では何かを感じて問いを見つけることが重要。その「何か」は実はどこにでもある。しかし多くの場合、目の前の「何か」に気がつかない。それを気づき感じるには、今の世の中、既定路線の価値を理解することにあまりにも忙しい。それでも見つけるには、一つ一つのことに無心に、丹念に、向き合うしかない。さらにいうと、その肯定感をもたらすセンスそのものに向き合う時間があるともっと良い。
理学部には既定価値に囚われずに、自分ならではのセンスを持って価値を探しだす、青雲の志を感じている人に来てほしいと思う。
冒頭の言葉は、既定路線の価値を壊して進む力を投げかけ、実存的肯定感を高揚させてくれる言葉でもある。