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ガイガーカウンターを持っていくのはもうやめた

高野 雅夫

2011年3月11日。東日本大震災が発生した。真っ先に思い浮かんだのは、原子力発電所は大丈夫なのか、ということだった。2001年に環境学研究科が発足して理学研究科から移籍した私は、化石燃料の資源が限られる中で、将来どういうエネルギー利用をしていけば良いのかという問題に取り組みはじめていた。インターネットで情報を収集していると、政府のページに福島第一原発と第二原発で事故が発生し、放射性物質による汚染が発生していることが報告されていた。はたして原発震災だ。これは地震の際に炉心反応は止まっても、地震動や津波の被害によって電源を喪失することで、炉内にある放射性物質が発生する熱の冷却ができなくなり、重大事故が発生するというものだ。その可能性があることは1970年代から指摘されていたが、ついに現実のものになってしまった。

汚染状況に関する情報を収集していると、飯舘村というところの線量がやけに高い。地図で場所を調べると福島第一原発からは30km以上も離れている。ちょうど南東の風が吹いて雪が降り、それで放射性物質が運ばれて沈着したのだ。

その後、福島に支援に入っていた友人から福島に来て相談に乗ってほしいという要請があり、放射能の強さ(放射線量)を測定する装置であるガイガーカウンターを持って出かけた。飯舘村の農家に連れて行ってもらって、納屋の軒下で測定したのが上の写真である。針が振り切れているのがわかる。屋根に沈着した放射性物質が雨で洗い流されて、土壌の表面近くで吸着されて濃縮したものと考えられた。長い時間いると危険な放射線量である。私は事態の深刻さを理解した。

避難地域に指定された区域以外でも、放射線量はもちろん通常の環境基準をはるかに上回っていた。住民に話を聞くと、言いようのない不安とともに、さまざまな情報が飛び交う中で、何が本当なのかわからないという苛立ちが感じられた。

私はそれから何度も福島にガイガーカウンターを持って通い、あちこちを測定してまわっていた。しかしある時、そうやって外から来た人間がいかつい機械を持って測って回ること自体が、住民にとってはストレスとなることに気づいた。住民たちはある覚悟を持って暮らしていた。私たちはここで暮らしている。これからも希望を持って暮らしていくつもりだ。かわいそうな人たちとは見ないでほしい。福島を汚染された場所よばわりしないでほしい。それは外の人間にはにわかには理解できないが、中に入って少しでも住民とふれ合えば理解できることだった。測定が必要なら住民自らが測れば良い。それからは測定器の手配や使い方の指導、測定原理の説明など、そのための支援をするようになった。

そうこうするうち、福島県内にたくさんの友人ができて、行くたびに彼らのところを訪問するようになった。ガイガーカウンターを持っていくのはもうやめた。代わりに趣味でやっているトロンボーンを持って行った。そうやってただ訪問して普通にふれ合うことが住民にとって何よりの支援になることがわかったからだ。

私は福島での経験を通して、科学の成果が市民にとんでもない迷惑をかけるだけでなく、科学的な調査が住民にとっての「暴力」となりうる場合もあることを思い知った。この経験は、私に再生可能エネルギー社会を構築することが何より求められることを確信させた。私はその後、再生可能エネルギー技術の開発とその社会実装の研究を続けながら、市民が自ら考え議論し、将来のエネルギー利用のあり方を意思決定できるようになるにはどうしたら良いか、多様な立場の市民とともに模索している。

写真説明
2011年6月、福島県飯舘村の農家の庭先で放射線量を測定。針が振り切れ、強い放射能があることがわかる。

高野 雅夫

地球惑星科学科 大学院環境学研究科地球環境科学専攻教授

木質バイオマスエネルギーやマイクロ水力発電などの技術開発とそれらの普及を通した里山再生のための社会的施策について農山村をフィールドとして研究を行う。環境学研究科附属持続的共発展教育研究センターで自治体や企業、NPOに対して持続可能な地域づくりのためのコンサルティング活動を進める。2013年には国連の専門家会議で日本の里山がもつ持続可能な社会づくりにとっての意義について報告した。

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