いつの間にか還暦もすぎ、定年という言葉が頭をよぎる年齢となってしまったが、ここらでこれまでの研究者人生を振り返ってみるのも悪くはないのかもしれない。ただ、それは思い返すも順風満帆とは言い難いものであり、いくつかの分岐点でさまざまな幸運に恵まれただけというのが正直なところである。
そのような分岐点のうち最初でかつ最大なものは、研究を開始して2年後にいきなり訪れた。私は、修士論文の内容に基づく一連の出版論文により一定の評価を得ることはできていたが、評価といっても国内のごく限られた研究グループの中におけるものであり、依然として全国的に、ましてや海外においては全く無名な存在に過ぎなかった。「もう少し大きなことを手掛けなければ道は開けない」と感じ、これまでの研究の流れからは一旦離れ、新しいテーマを自分で定めて研究を進めることにした。研究テーマの変更はそれほど簡単なことではなかった上に、そのテーマは当時の国内の数学者からの反応が芳しくはなく、「そんなことをやってなんの意味があるのか」との手厳しい批判まで浴びせられる始末である。ましてや海外ならば評価されるような実感も皆無であった。それでも年単位のブランクを経てようやく一編の論文を完成させ、初めて海外のジャーナルに投稿することができた。1990年のことである。
ところがしばらくして、論文アクセプトの朗報とともに、私の成果をはるかに上回る論文が最近出回っていることを査読者から知らされることになる。その著者は、調和解析の大御所であるプリンストン大学のスタイン教授と、その共同研究者である2人の若手数学者であった(彼らもいまや大御所である)。彼らの成果はプリンストン界隈では常識となっていたようであるが、当時は今の時代とは違い、電子メールやインターネットというものは存在せず、海外からの情報の伝達は格段に制約されていたのである。
普通ならばここで挫折してしまうところを、私は何を勘違いしたのか「このような大御所も取り組んでいたテーマであるならば、それを自分で見出した私の嗅覚も案外捨てたものではない」と勝手に思い込み、かえって自信を深めてしまった。いずれにせよこのまま日本にいて研究を続けていても埒が明かないという思いが先に立ち、折しもアメリカ数学会の広報誌に掲載されていたスタイン教授還暦記念の研究集会に思い切って参加することにして、いざ米国プリンストン大学へと赴いたのである。これが私にとっての初めての海外体験であった。
果たして、プリンストン大学での研究集会は大変刺激的なものであった。スタイン教授やその共著者たちとも会うことができたし、この訪問がきっかけとなりプリンストン大学で長期の研究滞在をすることにもつながった。その後もいろいろな分岐点があったが、最初の分岐点でのこの選択がなければ、その後の私の研究者人生はかなり違ったものとなっていたことだけは確かである。

