名古屋大学をはじめて訪れたのは、2016年7月末の暑い日、大学院入試のためである。次の年の4月、大学院に進み研究者を目指すのだという覚悟が、楽しみに埋もれた状態で、多元数理科学研究科の大学院生になった。名古屋大学は、学部生で出会って以来強いときめきを感じていた「環の表現論」の勉強に没頭できる、世界でいちばんの環境だったのだ。
大学からはdoor to doorで歩いて10分のところに住んでいた。車は勢いよく走っているが、閑静な住宅街である。家に籠って勉強していることもあったが、行きたくなったときは昼からでも夜中でも、いつでも好きなときに大学に行っていた。
さて、冒頭の「環」(かん)とは、たし算、ひき算、かけ算ができる数の体系である。例えば整数全体の集合は通常の演算によって環をなす。一方で自然数全体の集合は$3-5$などひき算ができないので、環ではない。他にも、$3x^2-3x+1$などの多項式全体の集合も環になり、放物線$y=x^2$のような図形もある意味で環と思えたり、さらに一見「数」とは関係なさそうなモノから環をつくり出すことができたりするなど、環は現代数学の最も基本的かつ普遍的な対象である。
また、高校数学で扱われるベクトルはたし算とスカラー倍ができる数の体系だが、このような代数的な構造が「環上の加群」という概念として定式化される。その環上の加群全体の集まりを加群の「圏」(けん)という。その加群の圏の構造を調べるのが「環の表現論」である。
このように書いただけでは抽象的だが、環や加群や圏は、具体的に計算したり絵をかいて手で触れたりすることができる、確かな実体を持った対象であり、それらが豊かな世界をなしているのだ。蛇足だが、現代では、数学も社会もさまざまなことが高度に抽象的である。それらを具体的に理解するのが「学ぶこと」の一般的な意義や目標の一つなのだと感じている。
名古屋には大学院生プラスアルファの5年間住んでいた。名古屋には「あのとき、あの場所で、あんなことを考えていた」という数学的な思い出がたくさんある。その中には、修士論文のネタになったもの、最近ようやくかたちになったもの、まだ解けていない大きな問題まで、さまざまだ。
筆者の現在があるのは、名古屋大学をはじめとする、いい先生方、先輩方に恵まれた環境のおかげである。修士1年の夏休みがはじまるとき、考えていることをはじめて指導教員の先生に(おそるおそる)聞きに行ったとき、楽しそうに相談に乗っていただいたことは特に印象的である。学部の頃はとても遠いところにあると感じていた「数学の研究」が身近なものになった。
大学は学問を通して人々をおおらかに受け入れてくれる良いところだ。読者の皆さんが進む先がそうであることを願っている。

